1988-05-18 第112回国会 衆議院 大蔵委員会 第18号
廣田内閣は倒閣になりまして、続く林内閣、近衞内閣となりまして、このときに法案が成立をいたしまして、以来、死亡保険金に対して相続税をかけるということが続いてきたわけであります。 しかし、その当時も、相続税というものはすべてにかけるものではありませんで、一定の控除制度はありました。
廣田内閣は倒閣になりまして、続く林内閣、近衞内閣となりまして、このときに法案が成立をいたしまして、以来、死亡保険金に対して相続税をかけるということが続いてきたわけであります。 しかし、その当時も、相続税というものはすべてにかけるものではありませんで、一定の控除制度はありました。
それとは意味が違いますが、昭和十一年の廣田内閣の馬場財政ですね、これがやはり相当大きな低金利の国債借りかえを行いました。
この運動がきっかけとなって廣田内閣が倒れて林内閣ができ、林内閣のもとに結局国会が解散になりました。そのとき清瀬先生は、郷里から送り届けられた鹿の肉をもってわれわれを招待され、「中原また鹿を逐う」と、意気軒高として杯をあげられました。 清瀬先生は、「選挙もいくさであるから、金も体力も出し切ってしまって、初めて勝つことができるのだ」と口癖のように申されました。
廣田内閣の当時の司法大臣になつて、あなた方古い方は彼に馳駆されて、日本全国に人権蹂躪至らざるなし。そして当時は検察フアツシヨと言われて非難された男だ。それがたまたま不幸にして二・二六事件で彼はやめた男なんです。だれがあの小原君を公正な検察当局の先輩と考えておりますか。そういう者がまたぞろ出て来て法務大臣になつておる。
ところで十一年になりまするというと、確か廣田内閣のときだと思いまするが、組合課税が問題になりまして、国の財政も相当要るということで、協同組合にも課税したらどうかという案が立案されたわけでありますが、併しこれは相当農民、或いは労働者の反対によりまして、それは否決になつたのであります。
多分廣田内閣ではなかつたかと思いますが、島田俊雄氏が農林大臣じやなかつたかと記憶しますが、私運動したんです、入れてくれと言つて‥‥。文官試驗の成績も非常によろしいし、人物も非常にいいけれども、採用になるはずのところをどういうわけか採用になりませんでした。どうして採用にならんだろうかということをいろいろ研究をして見たところが、余りに家が貧困だからということであつたらしいのであります。
この路線は廣田内閣の時代すなわち昭和十一年度にすでに一部の豫算計上をみたのでありましたが、支那事變の勃發と相なりまして、繰延べから中絶になりまして、今日に至つておるのでございます。
昭和時代に入り、いよいよ運動は熱度を加え、政黨政治に伴う自治權擴充の方向と併わして強く主張せられ、昭和四年第五十六囘、昭和六年第五十九囘、昭和八年第六十四囘、昭和九年第六十五囘各議會に、特別市實施に關する法律案として提出せられたのでありますが、いづれも衆議院は通過せるも、貴族院の阻止にあつて實現をみず、昭和十二年には當時の廣田内閣は、五相會議を開いて五大都市特別市制問題を協議し、同年第一次近衞内閣は